2020.6.29 12:00

【ベテラン記者コラム(10)】日本ラグビーのエポックメーカー、宿沢広朗氏

【ベテラン記者コラム(10)】

日本ラグビーのエポックメーカー、宿沢広朗氏

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ベテラン記者コラム
1989年5月 日本代表監督の初陣として臨んだスコットランド戦に勝利し、胴上げされる宿沢広朗氏

1989年5月 日本代表監督の初陣として臨んだスコットランド戦に勝利し、胴上げされる宿沢広朗氏【拡大】

 それは西サモア(現サモア)の首都アピアでの歓迎会だった。1989年8月、準日本代表ともいえるAジャパンXVが西サモア、トンガに遠征したときのこと。遠来のチームへの“おもてなし”で現地の舞踊が披露された。

 すると、地元のダンサーが「一緒に踊れ」とばかり、日本チームの1人をステージに引っ張り上げた。誰あろう、日本代表の指揮官で、この遠征では団長を務めた宿沢広朗氏だった。尻込みもせず舞台に上がった宿沢氏は、手足を珍妙にくねくねさせ、見よう見まねで“サモアンダンス”を踊り切った。

 宿沢氏には、知性や鋭利な論理性が先立つ印象があるが、この遠征を帯同取材していた筆者は、こうした人の気をそらさない振る舞いもできる器の大きさが、この人の本質なのだと感じ入った。

 ラグビーではエポックメーカーだった。89年5月、日本代表監督の初陣として臨んだ秩父宮のスコットランド戦に28-24の勝利。当時の世界8強の代表から初めて金星を奪った。代表監督最後の試合は91年W杯のジンバブエ戦。52-8で快勝し日本のW杯初勝利を飾った。監督として最初と最後に金字塔を打ち立てたのだ。

 このスコットランド戦前日には、秩父宮での相手の練習を、同競技場の南隣にある総合商社、伊藤忠商事・東京本社から偵察した有名なエピソードがある。冒頭の西サモア、トンガ遠征も、翌90年のW杯予選の相手だった両国の敵情視察の意味が大きかった。これまでほとんど相手の分析をしてこなかった日本代表で初めて本格的な分析を取り入れ、結果に結びつけた。

 埼玉・熊谷高から東大を目指したが、大学紛争真っ盛りの時代で東大入試が中止になり、早大に進学。ラグビー部では1年からレギュラーで活躍した。162センチ、65キロの小柄な体ながら果敢なタックルには定評があった。

 宿沢氏が自身のタックルについて話してくれたことがある。

 「体が小さいから、逆ヘッド(相手の体の前に頭を入れて倒す、危険度の高いタックル)の練習をやり続けた」

 今なら誰も推奨しないプレーだが、そんな熱さも持っていた。

 住友銀行(現三井住友銀行)に入り、敏腕ディーラーとして一日数百億円を動かした。専務執行役員だった2006年6月17日、登山中に心筋梗塞(こうそく)を起こし55歳の若さで急逝。存命なら頭取、そして日本ラグビー協会会長として腕を振るっていたかもしれないと思うと、金融界、ラグビー界にとって大きな損失だった。(田中浩)